グイノ・ジェラールの説教



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 聖木曜日C年     2013328日    グイノ・ジェラール神父

               出エジプト2,1-8,11-14  1コリント11,23-26  ヨハネ13,1-15

     最初の過ぎ越しの食事は、家族的な雰囲気の内で楽しい祭りとして行われました。 数日後、神が彼らに与えようとする奴隷の状態からの解放と自由を、前もってモーゼとヘブライ人の民は祝っていたのです。

   イエスも、ご自分が数日後与えようとする、罪と死の奴隷の状態からの解放と自由を、前もって弟子たちと共に、過ぎ越しの食事の家族的な雰囲気の内に行いました。 イエスと弟子たちは親密に救いの神秘を祝っています。 ところでその時、イエスは食事中にはしてはいけない行いによって、自分の弟子たちにショックを与え、驚かせました。 というのは、伝統的な習慣として、普通は食事の席に座る前に、僕が人の足を洗ったのです。 ところが、イエスは食事中に何の説明もせずに、急に弟子たちの足を洗い始めたのです。

    全く事情を分からない弟子たちは、それは「おかしい」とか「とんでもないことだ」とすぐ心の中で考えました。 我慢の出来ないペトロは、口を開けてイエスを激しく咎めます。 しかし、イエスは、静かに皆に自分の不思議な行いについて説明し始めます。 「私のこのやり方を理解してほしい。 今、あなたたちはショックを受けていて、 何も解らない、しかし必ず後ではっきり理解できます。」とイエスは話します。

   確かに、今夜、弟子たちを清める為に、たらいに水を流しているイエスは、明日、全人類を罪から清めるために十字架の上で自分の血を流すキリストです。 実に、今晩、遜って弟子たちの前にしゃがんでいるイエスは、明日、十字架を担ってその重みに耐えかねてしゃがむキリストです。

  今晩、イエスは食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、半分裸になり、手ぬぐいを取って腰にまといます。 そして弟子たちの足を洗ってから、もう一度上着を着て、再び食事の席に着くこのイエスは、明日、辱められ、服を取らせ、裸にされ、自らの選びで自由に自分の命を捨て、またそれを再び受けることのできるキリストです。

   今晩、人々の足元で遜っているイエスは、明日、十字架に高くあげられて、父なる神にまで全ての人を引き寄せるキリストです。 更に今夜、最後まで、最高の愛を示したイエスは、明日、最高の侮辱と妬みを受けるキリストです。 今晩、友達に囲まれて、何が何でもと自分の体まで糧として与えるイエスは、明日、孤独になり、自分の命を捨て、苦しみに砕かれたままに、恐ろしい死に方を迎えるキリストです。

  ですから、今晩、主の晩餐の記念を祝いながら神に感謝しましょう。 父なる神のいつくしみ深い心で、キリストの受難とその貴重な奉献を最高の愛の印として受け取りましょう! そしてキリストと共に、自分自身を父なる神の手に委ねましょう!  最後に、イエスが私たちの世話をすることを、「恥ずかしい」とか「もったいない」と言わず、愛されているキリストの友として単純に、素朴に承諾しましょう。 「どうか、主イエスよ、今夜私たちの全てを清めて、聖としてください! 私たちは自分の為ではなく、ただあなただけの為、そしてあなただけによって生きたい 、という私たちの望みを叶えてください。」 アーメン。



          
聖土曜日C年       2013330日     グイノ・ジェラール神父

                            ルカ24,1-12

    キリストは復活しました。 キリストの復活は、イエスの悲劇的な生涯の幸せな終わりではありません。 復活は私たちと関係がある出来事です。 全人類の歴史と特にイスラエルの歴史を通して、キリストの復活は神の救いの永遠の計画を啓示しています。 命が悪のあらゆる力に打ち勝つのが、神の唯一の望みです。 墓からイエスを引き出した神は、昔エジプトの奴隷の状態という墓からヘブライ人の民を引き出した同じ神です。 暗闇から光を取り出して、夜と昼を分けられた神は、昔約束の子とするためにイサクを救った同じ神です。 神が人間を創造したのは、死の為ではなく命と光の為であると聖書全体が宣言します。

    キリストの死と復活の神秘を通して、ご自分の救いの計画が勝利を受けたことを神ははっきりと示します。 確かに、罪と死から完全に解放された新しい命に、私たちはキリストと共に生まれ変わりました。 事実、罪と死の墓に閉じこもっていたのは、私たちでした。 イエスは私たちを解放するために来て、そして私たちを圧迫していた墓の石を転がしました。 ですから、まだ私たちを縛って巻いている罪と死の布をほどきながら、私たちはこの墓から遠く離れる必要があります。 この大切なことは、弟子たちの所へ遣わし、キリストの墓から婦人たちを遠ざける天使たちによって示されています。 弟子たちが集まっている所で イエスは命の勝利を明らかに皆に示すからです。 マタイの話によると天使たちは、墓の石に座っています。 それは婦人たちが墓を閉じることがないようにするためです。

    復活の最初の証人たちは、神が望まれた命の勝利を宣言します。 この勝利は目に見えるものです。 復活の証拠は空の墓の中ではなく、むしろ特別な体験の証し人となって、完全に変化させられた弟子たちと婦人たちの内にあります。 もし、パンの証拠が人を養う事だとすれば、復活の証拠は人々を変化し、活かし、そして証しをさせるのです。

    私たちはキリストの教会として、世界に復活の良い知らせを伝えるように選ばれました。 確かにキリストは生きておられ、死を滅ぼされた。 私たちが宣言することは、素朴過ぎるメッセージでもなく、人を追い散らすメッセージでもありません。 むしろ、人々を集めようと勇気を与える叫びです。 日常生活の出来事を通して、私たちは最終の勝利まで命の為のキリストの戦いをし続ける義務があります。

    キリストが私たちに先立っていると天使たちが告げました。 弟子たちにとっては、キリストが先立つ場所はガリラヤでした。 私たちにとっては、それは私たちが生きている場所です。 そこでキリストを見ることが出来る、と天使たちが証ししています。 何処へ行ってもイエスは必ず私たちに先立ちます。 それは私たちがキリストにおける私たちの希望と信仰を宣言することを助ける為です。 信仰年に当たって、イエスは本当に復活されたので、私たちは命が死に打ち勝ったことをどうしても宣言しなければなりません。 アーメン、アレルヤ。



              復活の主日C年    2013331日     グイノ・ジェラール神父

                   使徒10,3437-43  コロサイ3,1-4  ヨハネ20,1-9

    「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの信仰は無駄であるし…、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(1コリント15,1419)と使徒パウロは書きました。 確かに、そうであれば、私たちの人生は完全に無に帰るのです。 しかし、イエスが生きているなら、すべては可能となり、人間の未来は光輝くものとなります。 そういう訳で、人々が絶望に陥ることのないように、私たちはこの良い知らせを伝える為に急がなければなりません。

    復活の出来事を語る様々な話は、走り回ってとても忙しい人々を見せようとします。 安息日がまだ終わっていないにも拘らず、マグダラのマリアは急いでイエスの墓まで行きました。 暫くしてから、他の数人の婦人たちが彼女のそばに集まりました。 しかし、イエスが生きているとある天使が伝えたので、彼女たちはこの知らせを伝える為に すぐ分散して、各弟子の居る所へ急いで走りました。

    ペトロとヨハネに知らせる責任を受けた若いマグダラのマリアは、イエスの母マリアと同じような年の他の婦人たちよりも もっと速く走ったに違いありません。 彼女の話を聞いてから、今度はペトロもヨハネも走り始めて墓へ行きました。 泣きながら、キリストの墓に戻ったマグダラのマリアは イエスと出会います。 復活の最初の証人となったマリアは、休む間もなくアッと言う間に 弟子たちのところへもう一度急いで走ります。 更に、この日の夜、復活されたキリストと出会ったエマオの二人の弟子たちは,走りながらエルサレムに戻って、他の弟子たちに見た事と聞いた事を述べ伝えます。

    私たちは復活の出来事を知らせる為の弟子たちや婦人たちの忙しさがよく分かります。 しかし、私たちにとってはどうでしょうか?  周りの人々にキリストが生きていることを伝える為に一体どれ位急いでいるでしょうか?  むしろ、復活の出来事を隠そうとしたエルサレムの大祭司のように、私たちも自分がキリスト者であり、またキリストが私たちを生かしていることを人々に解らないように隠す傾きがないでしょうか?

    十字架の上で死ぬことによって、イエスは自分自身を完全に愛に奉献しました。「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13,2)。  確かに「人の子は必ず、罪びとの手に渡され、十字架に付けられ、三日目に復活することになっていました」(ルカ24,7)。  この世の暗闇を照らす光となるためにイエスと一致して、私たちが死に打ち勝つようにキリストに招かれています。 もし「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きていることにもなると信じます…わたしたちも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と復活されたキリストの特別な証人となった聖パウロは断言します。

    私たちは、しばしば、キリストが生きている事と私たちの人生がキリストと共に神の内に隠されている事を忘れがちです(コロサイ3,3)。  彼を見なくてもイエスは私たちの人生のあらゆる場所におられます。 イエスは愛によって死んで復活しました。 同時に自分の栄光に満ちた永遠のいのちに私たちが生きることを教える為に、イエスは愛によって私たちと共にずっと留まります。 ですから、イエスが私たちの考えと心を満たすことが出来るように任せましょう。 キリストが罪から私たちを清め、聖化するように絶えず願いましょう。

    私たちにとってキリストを発見するのは、終わりのない聖なる務めです。私たちがイエスと長く、熱心に出会えば出会うほど、必ず彼の親密な友達になるに違いありません。 そして、たくさんの人を一緒に引っ張りながら イエスの方へ走りましょう。 雅歌という美しい書物はそれを行なうように誘いますから。 「主よ、私をあなたの横に引き寄せてください、さあ、私たちが一緒に走りましょう!」(雅歌4)。

    真にイエスは生きておられる! 本当にイエスは復活しました! あらゆる人生の道で彼は私たちに先立ち、そして世の終わりまで私たちの傍に留まります。 命が大好き、命を惜しみなく豊かに与える神と共に生きるように召されているので、私たちが待たずに、急いで歌いながら神に感謝して、自分の信仰を至る所に伝えに行きましょう! アーメン、アレルヤ!



        復活節第二主日C年   201347日   グイノ・ジェラール神父

       使徒51216  黙示録1,913 1719  ヨハネ20,1931

    もし皆が私に「どうして信じているか」と尋ねるならば、私は先ずこの様に答えるでしょう。 「誰かがキリスト教の信仰を私に伝えたから 私は信じます。」 この答えは簡単すぎると思われるかも分かりませんが、全ての信者は、この方法で信じるようになりました。  確かに私たちが固く信じているものは、他の人々が私たちにそれを伝えたからです。 何世紀にも渡って、特にイエスの復活の日から、信仰はこの様に伝え続けられているのです。

    もし皆が私に「どうして信じているか」と尋ねるならば、私はこの様にも答えるでしょう。 「ご自分の後を歩むようにとイエスが私に呼びかけられ、その上でご自分の現存の印を時々与えられたので、私はイエスが生きておられることを信じます。 」 しかし、信仰の賜物は見る事と感じる事によってよりも、聞くことによって与えられているのです。 見る事で私たちは物事を確認できます。 しかし信仰はいつも信頼から生まれます。 私が中々見えない物事について説明する人が信頼されているのなら、私は彼を信じる事が出来ます。 私も皆も、信頼の内にカトリック教会の証しを受けたので、今日信じる事が出来ます。

     「見ないで信じる人は幸いである」とイエスは断言したことをヨハネは福音の終わりに説明しています。 しかしヨハネの福音は、初めから終わりまでその逆を教えています。 信じるためには見る必要性があるとヨハネは強調しています。 実に洗礼者ヨハネは「私はそれを見たから、イエスこそ神の子であると証ししています」(ヨハネ1,34)と宣言します。 またヨハネの福音の中でイエスの最初の言葉は次のようです。 「見に来なさい、そうすれば分かる」(ヨハネ1,39)。 更にイエスはナタナエルに次のようなびっくりするような事を語りました。 「私はお前がいちじくの木の下にいるのを見たと言ったので信じるのか。 もっと偉大なことをお前は見ることになる」(ヨハネ150)と。 それから弟子たちはイエスの話を聞きながら、彼の奇跡と生き方をよく見ながら、イエスが神から来られた方であることを、確信をもって信じるようになります。 最後に、第一の手紙の中で聖ヨハネは、繰り返して次のように書きました。 「私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触れたものを伝えます。 即ち命の言葉について証します(Tヨハネ1,1)。  結局、ヨハネが言ったことこそ、トマスが「主を見た」と友達が彼に告げた時に、要求したことです。 「あの方の手に釘の後を、またこの手を脇腹に入れてみなければ私は決して信じない」と。

    神を見ることは到底無理です。 そのために神は御自分の子イエスを通して御自分を見せようとなさいました。 そう言う訳で、イエスはフィリポに言いました。 「私を見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14,9)。 それ故に、信じるためには見ることが必要です。 ところで、トマスが見たかったのは受難の出来事の前のナザレのイエスではなく、復活されたイエスを見たかったのです。 トマスの考えでは、キリストの傷を見て、触れる事が出来れば、イエスが復活されただけではなくイエスが死に打ち勝ったことをも信じるようになれます。 そう言う訳でトマスの信仰は、他の弟子たちの信仰を超えています。 傷だらけのイエスの前で、トマスが信仰のほとばしる叫びをあげます。 「私の主、私の神よ。」 実にトマスは神御自身を見てしまいました。

    トマスは、復活について確認するよりも信仰の内に深く入ります。 勿論、彼はキリストを見、触れたかも知れません。 それよりもトマスは「目に見えない神が」自分の前に立っていることを宣言します。 私たちがトマスの発見を理解する為に昔、聖イレネオ司教が言ったことが役に立つのではないでしょうか。 「父なる神は、御子の見えない部分であり、そして御独り子は、父なる神の見える部分であります。」言い換えればイエスの内に神御自身が十字架につけられました。 父なる神の全能と力を表すキリストの復活について、トマスはあまり驚きませんでした。 むしろ彼が見ている方、ご自分を触れるように命令する方こそ、神御自身であることにトマスは非常に驚きました。 やはりトマスが想像していた神は、全く違う神だとはっきり分かりました。 私たちの罪のせいでひどく傷つかれている神をトマスは仰ぎ見ました。 そこでトマスは、神の弱さは人間の暴力よりも強いということを悟ります。 「私たちが突き刺した者をみること」(ヨハネ19,36)は、「神が愛」であり「永遠の命」であることを発見するために避けられない肝心なことです。

    私たちは皆、トマスのように疑う権利を持っています。 何故なら、信仰の内に私たちは目にみえない神の傍に歩んでいるからです。 疑問から理解へ、疑いから確信へ、日毎に歩みながら、私たちは信仰の内に成長しています。 しかし固く信じる為に聖ヨハネが残した証しは重大です。 と言うのは自分の福音の終わりにヨハネは私たちのためにこの様に書きました。 「このほかにも、イエスは弟子たちの前で多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであることを信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ20,30)。 やはり、信仰の賜物は神の言葉を聞くことによって与えられているのです。ですから、信じることが出来る私たちは幸せですから神に感謝しましょう。 私たちを復活させるために、また永遠に御自分と共に生かす為に、神は死ぬほど私たちを愛しておられます。その神を仰ぎ見て、信仰の光を受けましょう。 アーメン。



          復活節第3主日      2013414日   グイノ・ジェラール神父

               使徒5,27-3240-41   ヨハネ黙示5,11-14  ヨハネ21,1-19

     第二の不思議な漁は、イエスの弟子たちに新しい地位を与えます。 彼らはもはやナザレのイエスの弟子ではなく、復活されたキリストの証人です。 ペトロが特に仲間たちの責任者として定められているのです。

   今日の福音の話は、夜の不毛の漁から始まります。 すでに聖ヨハネはイエスに次のことを言わせました。 「だれも働くことのできない夜が来る」(ヨハネ9,4)と。 魚の一匹も獲れなかったこの夜は、ユダがイエスを裏切った夜、そしてペトロがキリストと自分たちの仲間を否定した夜を思い起こさせます。 この夜は罪の夜です。 すでに最初の罪の夜の時に、裸であったアダムはエデンの園から追い出されました。 自分の船の中で裸であるペトロは、自分の心の中に犯した罪の重さ、つまり今日の福音が思い起こさせた自分の三つの否定の重さを持っています。

   そこで「世の光」である方が、夜から出て来ます。 ペトロがもう一度網を打つように彼は頼みます。 そして直ぐに溢れる程の漁になりました。 この奇跡は「イエスの愛していた弟子」の目を開き、彼はすぐ「主だ」と叫びます。びっくりして幸せになった弟子たちは、自分の傍にいる復活されたキリストの現存と同時に、すでに準備している暖かい食事の喜びを発見します。

 新しい日が始まりました。 弟子たち自身も新しい人となるでしょう。 彼らは最終的に網と船を捨てて、人間を獲る漁師になるでしょう。 今から後、救いの福音を述べ伝える為に全ての弟子たちはキリストの復活の内に聖霊の力を汲むようになります。

     しかし、今は朝の涼しさの内に弟子たちは、たき火を囲んでイエスと共に食事を分かち合う喜びを味わっています。 ところが、この食事とたき火こそ、ペトロにとっては生きている咎めです。 なぜならこの炭火は、ペトロがイエスを三回否定した時に他のたき火の前に座っていたことを思い起こさせますから(マルコ14,66-72)。 同時に朝の親密な食事も、ペトロに晩餐の親密な食事の雰囲気を思い起こさせます。 晩餐の時ペトロが皆の前で、彼自身だけが終わりまでキリストに忠実に留まることを誓ったからです。 「たとえ、みんなが離れ去っても、わたしは別です」(マルコ14,29)。

     そこで皆の前でイエスはペトロの心に刺すような三つの質問を問いかけました。 「ヨハネの子シモン、私を愛しているか? この人たち以上にわたしを愛しているか?」 受難の時の恥ずかしい態度を深く悔いながら、ペトロはイエスに自分の心の愛を叫びます。 「主よ、あなたは何もかもご存知です。 わたしがあなたを愛していることを、あなたは知っておられます。」 このようにペトロが、過ちの痛悔から愛へ、仲間たちの否定から彼らの責任へと移されました。 キリストの教会の中で愛を完全に広げることが出来るように、いつも赦しに場所を与える必要性があります。

    私たちは皆ペトロよりも強くありません。 ペトロのように試練の恐れと不忠実さを体験します。 そういう訳で、愛のうちに成長することが出来るように、私たちは神と信仰の兄弟姉妹に赦しの恵みを願わなければなりません。 イエスの方が絶えず私たちに次のことを尋ねるに違いありません。 「あなたは私を愛していますか? 私を充分愛していますか? 本当に今も私を愛しているでしょうか?」 私たちの答えはいつも新しくなるでしょう。 なぜなら私たちはいつも新たにされるからです。 私たちは素直に次のように答えることが出来るでしょう。 「主よ、あなたは何もかもご存知です。 私があなたを愛していること、あなたを愛したいこと、永遠に愛し続けたいことをあなたはよくご存知です」と。

    今朝もイエスは友達である私たちの為に、ご自分の体と血の食事を準備しました。 復活されたイエスの命のこの分かち合いの内に、私たちは喜びを見出すことが出来るでしょうか。 イエスは弟子たちの日常生活の仕事を通して、また毎日の生き方を通して、彼らを迎えました。 私たちもイエスに、自分たちの日常生活を満たす物事を捧げることが、出来るでしょうか。 それは喜びと疲れ、成功と失敗、恐れと希望です。 復活されたキリストは、普段の生活の中にしか出会わないからです。 ですから、に私たちの人生の具体的な出来事の中に永遠におられる神に感謝しましょう。 そして、神の喜ばしい現存のあり方をまだ知らない人々に急いで伝えに行きましょう。 アーメン。



          復活節第4主日 C年     2013421     グイノ・ジェラール神父

         使徒13,1443-52  ヨハネの黙示7,9,14-17  ヨハネ10,27-30

    一年の中で教会は何回も繰り返して良い牧者と羊の群れのたとえ話を提案します。 羊飼いと羊の群れのイメージは、日本の文化や文明に属していないので、自然のない都市の生活に慣れている私たちは、多分一度も羊飼いと羊の群れを見た事がないでしょう。

    イスラエルの国の大部分は小石だらけの地域であり、そこに生える草は非常に少ないので、羊の群れは絶えず移動しなければなりません。 その上、低い石垣や囲いがないので、羊飼いは群れを守り導くために羊の群れの傍でずっと立つ必要があります。 その為にイスラエルの人々は自然に羊飼いの役割とその呼びかけを自分たちの王たちや神ご自身に与えました。  「主はわたしたちの神、わたしたちは神の民、主に養われる群れ、御手の内にある群れ」(詩編95,7)。 神を良い羊飼いとして描くダビデ王の詩編を私たちは度々歌っています。 「主は、われらの牧者、わたしはとぼしいことがない」(詩編23,1)。 預言者イザヤも来たるべきメシアを羊飼いとして告げ知らせます。 「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40,11)。

    実に、羊飼いの理想的な役割が完全にキリストの内に実現されました。 イエスは迷った羊を捜し、イスラエルの民を「羊飼いのいない羊の群れ」(マタイ9,36)のように見て深く憐れみます。 またイエスは愛をもって自分の弟子たちを「小さな群れよ」(ルカ12,32)と呼びます。 更にペトロもイエスを「魂の牧者」(1ペトロ2,25)と呼び、ヘブライ人の手紙はイエスを「羊の大牧者」(ヘブライ13,20)と名付けます。

    今日の福音は特に良い牧者であるイエスの特徴をはっきりと目立たせています。 まず、羊飼いと羊たちの間にある互いの知識が力説されています。 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。 わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 」残念なことに日本語はギリシャ語とヘブライ語の「雌羊」を「羊」と翻訳しているので、私たちがその単語が持っている本来の意味である「命の神秘」をすぐ聞き分けることが出来ません。 羊たちという動物の運命は「いけにえ」やご馳走になるように定められています。 反対に、雌羊たちが大切に育てられるのは、彼らの羊毛とミルクと子孫の為です。 雌羊たちは長年の間、羊飼いの傍に留まるので羊飼いは一匹一匹の雌羊の性格をよく知っているし、彼らに適当な名を与える習慣があります。 イエスは自分の弟子たちを親密によく知っていると私たちに打ち明けました。 確かに私たちが世にも稀な者、ユニ−クな者であるように、また神の前にただ一人だけ存在している者としてイエスによって個人的に愛されています。

    私たちが死なないように、イエスは自分の命を与えることも教えています。 そう言う訳で良い牧者の福音がいつも復活節の時に読まれているのです。 ご受難の間にイエスは、自分の命を与えながら自分の弟子たちの命を守る良い牧者であることをはっきりと示しました。 「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」(ヨハネ18,8)とキチストは自分を逮捕する兵士たちに言いました。

    それに従ってイエスの弟子たちが四つのことを実現するように招かれています。  まず聞くこと。  肝心なことは、私たちの存在に重大な意味を与えるイエスの声に耳を傾けることです。 次に、私たちの使命と人生の目的を悟るためには 私たちが親密にキリストを認識することです。 キリストを親密に知ることによって、私たちがイエスと父なる神との一致、またイエスの正義、愛、真理への飢え渇きや神の救いの計画を理解する恵みを受けます。更に私たちは揺るぎない信頼の内にイエスの後に従わなければなりません。 私たちの人生の中でイエスを大切にすればするほど、イエスに従うことが楽になります。  同時に私たちは自由になり、そして自分の存在を正しく導く者となります。 そして最後に 人々に自分の信仰を分かち合うことも、人々とコミュニケーションをとることも容易に出来る人にならなければなりません。

    黙示録の中でヨハネが「数えきれないほどの大群衆を」見ていると書き記しました。 この大群衆は男性と女性によって構成されています。  良い牧者イエスは皆を親密に知っているので、一人ひとりを自分の名で呼んでいます(ヨハネ10,3)。 彼ら皆が生涯に渡って神に揺るぎない信頼を示しました。 皆が「神の目によって値高くユニーク、貴人」(イザヤ43,4)であります。 ですから、いつか私たちもこの大群衆に数えられるように努力しましょう。 キリストの声に耳を傾けながら、揺るぎない信頼を持ち、彼の後に忠実に歩みましょう。 キリストとの親密さが私たちの永遠の幸せとなりますように。 アーメン。



         復活節第5主日 C年    2013428日  グイノ・ジェラール神父

         使徒14,2127  黙示録21,15  ヨハネ13,3135

    キリストの復活の光で、今日の典礼は死を迎える前にイエスの話された言葉について考えさせます。 ユダはイエスを既に裏切った時、そしてペトロが3回続いてイエスを否定する前に、イエスは次のように断言します。 「今や、人の子は栄光を受けた」と。 この状況を知っている私たちはこのように考えられないでしょう。 しかし、このように言ったイエスは自分の愛が裏切りや否定や死よりも強いと宣言したいのです。

    今聞いたヨハネの福音の箇所は、キリストの愛と栄光をご受難の中心とします。 栄光と愛は受難の暗闇を照らす2つの光り輝く火元です。 父なる神と御ひとり子イエスとの一致の神秘は、5回繰り返している「栄光を受ける」という動詞によって示されています。 同時に3回繰り返している「愛する」という動詞は、キリストの受難の中心が三位一体の神の愛であることをはっきりと示します。 この愛は遺言として私たちに委ねられています。 この愛こそ私たちの責任となるのです。 「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。 深い愛情をもって私たちを「子たちよ」と呼びながら、イエスは御自分の愛を私たちに完全に委ねました。

    イエスが言われた栄光と愛の言葉は、死を妨害しブロックする言葉です。 イエスと私たちにとっては、ただ神の愛と栄光が私たちの内に命を保ちます。 神からいただいた命とキリストの愛によって支えられているこの命だけが、罪と死の夜、つまり目が暗むような夜の中を、私たちを無事に通り過ぎさせます。 このようにイエスの復活は神の愛の証しとして与えられています。 神は罪人の死を望まずに「すべての人々が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(テモテ2,4)。

    キリストにおいて啓示されている神の愛と栄光を祝うように、すべてのミサ祭儀は私たちを招いています。 キリストの御体と御血をいただくことで、私たちはキリストの体となり、そして彼の受難に与るようになります。 というのはキリストが愛したように、私たちも愛することが出来るように、聖体拝領によって私たちは自分の内に、キリストの愛と栄光の命を受け入れるからです。 キリストとなることは、自分の共同体の中にいる人々の本当の兄弟姉妹となる決心をすることです。

     私たちの手に置かれた聖体の内にイエスは一人ではありません。 「十字架にあがなわれた数えきれない群衆がイエスを伴っています。 というのはキリストの体をいただく度に、イエスと共にキリストの神秘的な体となった全ての人を受け入れます。  拝領によって、私たちはイエスが愛している全ての人を自分の内に受け止める必要性を神の愛が悟らせます。 この人たちは貧しい人、病者、差別された人、信仰の内に弱い人あるいは強い人、全ての聖人と全ての罪びとです。 自分の手に置かれた聖体こそ、神の完全な愛であると同時に、私たちの愛と祈りによって支えてほしいと要求する全人類でもあります。 聖体拝領によって単にイエスだけを受けることは不可能です。

   キリストの神秘の内に全人類の苦難と惨めさが含まれています。 苦難の時、私たちは受けた信仰の恵みを土台としなければなりません。 「人の子が栄光を受けた」というのは、神の愛がキリストの心を満たしながら完成されたことを意味します。 いくら外面的にキリストに対する妬みと裏切りが強いものとして見えても、イエスの愛が必ず勝利を受けます。 ゴルゴタという所でイエスの愛は悪と死に打ち勝ったから、私たちが試練や絶望的な状況に置かれている時に、必ず復活の力の内にイエスの愛が私たちに勝利をもたらすことを固く信じています。 その条件は、互いを愛することです。

   キリストの体と血に強められ、彼の受難と復活に結ばれ、そしてイエスの愛によってあがなわれた全人類に一致された私たちは、本当にイエスの弟子であることを証しすることが出来ます。 確かに自分の弱さの状態と失敗と謙遜を承諾することによって、私たちがイエスの遜りの状態に与かります。 「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに、固執しようとは思わず、かえって自分を無にしました」(フィリピ2,6)。 ですから信仰と感謝の内にキリストの体を受けましょう。 そして互いを愛する努力によって、神が益々私たちの内にご自分の栄光と愛を現わされますように。  アーメン


            復活節第6主日 C年      201355日    グイノ・ジェラール神父

                 使徒15,1-222-29  黙示21,10-1422,23  ヨハネ14,23-29

    イエスの従弟であり、12人の弟子の一人であるユダの質問から今日の福音が始まります。 「主よ、わたしたちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」とユダは尋ねます。 イエスはこの質問に答えません。 かえって自分を愛する人々と愛さない人々の間を識別します。 自分を愛する人だけが、神を知ることができることをイエスは説明します。 従って愛する人だけが、イエスの言葉を守ることが出来るのです。 忠実にみ言葉を守る人を父なる神も、イエスもご自分の留まる場所とします。

   今日の福音の箇所は解りにくいので、ヨハネとイエスにとって「言葉を守る」とはどういう意味であるかを知る必要があります。 2種類の言葉があります。 一つは お知らせする言葉であり、もう一つは何かを創造し、作り出す言葉です。 良く使われている言葉は、何かを教え、知らせ、また勧めている言葉です。 例えば、もし誰かが私に自分について話すなら、その人の言葉が私に何かを教えるから役に立つ言葉です。 しかし、その人の話を聞いても、聞かなくても私の日常生活の生き方は全く変わりません。 しかし、何かを作り出し、創造する言葉は稀であり、人間に大きな影響を与え、それを聞く人にとってこの言葉はとても大切です。 例えば、誰かに「あなたを愛しています」と言うのは、お知らせよりもこの言葉が人に喜びと希望を与えながらその人を「愛されている者として」形作ります。 このように 神のみ言葉は命と希望を与える創造的な言葉であり、忠実に守るべき貴重な宝物です。 イエスが「言葉を守る人」と「言葉を守らない人」とを識別する時には、自分の創造的な言葉について語っています。

   イエスと聖ヨハネにとって「守る」という単語は、「丁寧に保存すること」や「保護すること」を意味しません。  ファリザイ人たちは十戒と掟を大切にするのは、 神のみ旨を行うためではなく、自分自身を良く見せるためでした。 しかし「言葉を守る」ということはその言葉を固く信じることです。  即ち言われたことを固く信じながら、同時にその言葉を言われた人に対して揺るぎない信頼を示すことです。 ですからキリストを愛することは、自分の心のメモリーの内にずっと生きているものと、生きるために助けとなるものを生かすことです。 例えば、やもめは自分の心の中に主人の思い出を生きたものとして守り、その思い出によって自分を生かすと同時に、その思い出を失うことを恐れずに他の人々と分かち合うことが出来ます。 イエスのみ言葉も生きるために重大な助けであり、人々と分かち合うことや人々に宣言されることを要求します。

   神の言葉は貴重な宝物として私たちの内に留まりたいと望みます。  私たちはその言葉の内に日常生活の為に必要なものを汲み取ります。  確かにキリストを愛している人々は、彼の言葉を守りその言葉によって自分の愛、信仰、希望を強めるものを見つけ出します。 このような人たちは、神の住む場所になるとイエスは教えています。 どのようにしてこのことを説明するでしょうか ? 多分やもめのたとえと彼女が記憶している思い出が理解するために役に立つかも知れませんが、それでも、神は決して思い出ではなく、神はずっと続く、生きている存在です。

    神の住む場所となり、あるいは聖霊の神殿となることは神と共に親密に生きることです。 それは丁度、イエスが聖霊の交わりの中で父なる神と味わっている同じ親密さです。 福者三位一体のエリザベトは幼い時からこの神秘を生きる恵みを受けたので、このユニークな愛の関係についてよく書き記しました。 また、シエナの聖カタリナ、聖ヒルドガルト・フォン・ビンゲンと他の聖人たちも、この自分の内にあった神の現存の神秘についてたくさんの書物を書きました。  残念なことですが、彼らが書いたものと自分たちが生きた事実の証しとの間で、深い淵があります。 人は愛を説明できませんが、愛に生きる者です。 その為にイエスは、自分の従弟ユダの質問に答えようとしませんでした。
  
  私たち一人ひとりが、イエスの言葉によって生きるかどうか、と言う死活問題の前に置かれているのです。 キリストの言葉は「生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く…心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブライ4,12)と、言うことを私たちは良く知っています。 また、イエスが言われたように彼の言葉が最後の日に私たちを裁きます(ヨハネ12,48参照)。 ですから神の言葉を聞いてそれを守る人の数に数えられますように。 そして私たちが愛で満たされた神の存在を 既にこの世で,深く味わうことができますように。 アーメン。



        の昇天 C年       2013512日     グイノ・ジェラール神父

         使徒1,1-11  ヘブライ9,24-28  ルカ24,46-53

   「主の昇天に私たちの未来の姿が示されています」と、今日の最初の祈りが教えました。 自分の弟子たちを祝福しながら天に昇るキリストは、全人類に十字架のしるしを残し、人間の惨めさを神の栄光の内に入れてくださいました。 キリストの昇天は全人類に新しい生き方の方向を教えてくれます。 「キリストが多くの兄弟の中で長子となられたのは」(ローマ8,29)、「私たちがキリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するためです」(エフェソ4,13)と聖パウロは説明しました。 私たちが神の聖性と神性に与かるように、人間となったキリストはその体と共に神の栄光の中に入りました。 天に昇るキリストは、弟子たちを祝福しながら十字架のしるしを残すことで、垂直と水平にご自分の現存を宇宙全体に広げます。

   主の昇天は先ず、下から上へという垂直の動きを見せます。 イエスはガリラヤにある約束の山で弟子たちから離れて昇って行きました。 「イエスは天に上げられた」とか、「彼は天に於いて全てのものの上に置かれている」(エフェソ1,22)等と述べられています。 そしてついに地上から天へという垂直の動きは、今度は水平の動きによって延長されます。 つまり、福音の良い知らせを伝えるために弟子たちは、地の果てに至るまで遣わされています。 キリストは天に昇って行き、弟子たちは地の果てに行きます。 十字架の形を示すこの二つの方向は、キリストと弟子たちを離れさせるように見えますが、この中央におられる聖霊は皆を一致させます。 ここに弟子たちの大きな喜びの理由があります。 天のいと高き所までと、地の果てまで神の国やキリストの教会を広げる主の昇天は「帰還」であると同時に、また「出発」でもあります。 父のもとに戻るキリストの帰還、そして福音宣教のために遠くまで行く弟子たちの出発は、聖霊によって全人類を大きな喜びの内に導いています。 神の救いと栄光は天と地に満ちているのです。

  天の父のもとにキリストを遣わし、地の果てに弟子たちを遣わす聖霊は彼らを喜びの親密な絆でに結び合わせます。 この新しい有り方、つまり内面的であると同時に宇宙的な生き方は全てのキリスト者の特徴です。 さて、「出発と帰還」、「アルファとオメガ」、「始めと終わり」として私たちから離れ、私たちを散らすキリストは、また愛の中心に私たちを引き寄せ集めます。  私たちの存在とは「キリストと共に神の内に隠されている」(コロサイ3,3)のですが、制限のない永遠の動きを持っている存在です。 キリスト紀元前6世紀の異教徒のギリシャ人の詩人エピメニデスでさえ「我等は神の中に生き、動き、存在する。」と発見して打ち明けました。 このエピメニデスの証しの確実さを、キリスト者は三位一体の神と共に生きることによって確かめます。

   私たちの生き方は二つの無限のものの間で引っ張られています。 つまり私たちは神の無限の愛と福音の宣言の間で、垂直にまた水平に生きていると同時に「イエスは世の終わりまで一緒にいる」ということを証しします。 またこの証しは聖霊ご自身のものでもあります。 聖ペトロはこのように証ししました。 「イエスが生きておられる、わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」(使徒5,32)と。 ご存じのように亡くなった人に対する友人の忠実さとは、彼が生きていた時の言葉や行いから思い出や慰めや励みを引き出し、それで自分の生き方をすることによって現されます。 しかし聖霊が与える真の忠実さとは、キリストの行い、言葉、教えを思い起こすだけではなく、キリストの命で私たちを完全に生かすことです。

   主の昇天は特にこの新しい生き方の出発です。  聖霊の交わりの内に、福音と一致して生きる人は「イエスは自分の内に生きておられる」事実の証人となるほかありません。 確かに、弟子たちの証しの値打ちは、キリストとの親密な一致にかかっていました。 キリストを離れては、何も出来ないことをよく知っていた弟子たちにとっては、キリストの証人である事は「自分に生きるのではなく、死んで復活されたキリストに生きることでした」(ミサ第四奉献文)。 また主の証人であるのは「キリストにはっきり知られているように、自分自身もはっきりキリストを知ることです」(1コロサイ13,12)。 更にキリストの証人であるのは、「キリストとその復活の力を知り、その苦しみに与り、益々キリストの死の姿にあやかりながら....自分がイエスに捕らえられたようにイエスを捕らえようと努めることです」(フィリピ3,10-12)。

   結局キリストの証人であるとは、キリストを親密に内面的に知り、外面的に知らせることです。 言い換えれば、私たちが聖霊によって神と一致して、イエスが抱いた同じ思いを抱かなければなりません。 つまり「キリストのように考え、キリストのように話し、行い、愛する」ことです。 私たちがそれを実現するようにキリストは今日天の門を大きく開いてくださいました。 キリストに従ってここに入りましょう。  アーメン。



          聖霊降臨の主日 C年    2013519日  グイノ・ジェラール神父

            使徒2,111  ローマ8,817  ヨハネ14,15162326

   「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれています」(ローマ5,5)。 聖霊は私たちに命を与えながら、三位一体の神の中心に私たちを引き寄せます。 それは父と子と聖霊の愛を私たちの内に完成されるためです。 ですからこの日に当たって神の命が私たちを満たすように、また私たちが聖霊の教え導きを受けるようにお互いに祈り合いましょう。

    聖霊の名は次のようです。 「愛、慈しみ、慰め、憐れみ」等です。  聖霊はいつも私たちの内に愛する能力を新たにします。 実に、人々が自分の心と生き方の中で真の愛の姿を見分けることが出来るなら、きっと聖霊がその愛を与えたに違いありません。 聖霊は、どうしても私たちの心の内に留まり、私たちの存在を分かち合い、結局私たちと一致したい神ご自身です。 神がどうしてもご自分の神性、叡智、喜びと愛に私たちを与らせたいので、ご自分の霊を私たちに与えるのです。 東方教会のサロフの聖セラフィンは(Seraphim de Sarov)「キリスト教的な生活の目的は、聖霊によって生きることだ」と言いました。

    勿論私たち一人ひとりは、個人的に聖霊によって生きることが出来ます。 しかし今日の三つの朗読は、聖霊が先ず信じる人たちの共同体に与えられていることをはっきりと思い起させます。 確かに聖霊が先ずイエスの使徒たちの上に、そして次に大勢の弟子たちの上に、更に世界に広がっている教会の上に注がれました。 従って聖霊はすぐ彼ら皆を他の人々の方へと世界の果てまで遣わします。 「私たちは人を再び恐れに陥らせ、奴隷とする霊を受けていません」と聖パウロが宣言します。 聖霊は私たちを神の子とし、互いに愛し合う兄弟姉妹へと変化させます。 「一人ひとりに霊の働きが現れるのは共同体全体の利益となるためです」(1コリント12,7)と聖パウロも言われました。 確かに、聖霊が私たちに与えられているのは、他の人の霊的な進歩と幸せのためです。

    セザレの聖バジリオ(Basile de Cesaree)は「聖霊を掴むことは出来ないが、聖霊の慈しみを理解出来ます」と説明しました。確かに、聖霊の助けで私たちが実現しようとするよい業を通して、聖霊の慈しみを悟るようになります。 例えば、谷間にいる人と何かを分かち合うこと、病人を見舞うこと、他人の欠点をいらいらせずに耐え忍ぶこと、或いは人に微笑むこと、慰めと励ましの言葉を与えること、それらのよい業のすべては聖霊がさせることです。 この様な簡単すぎる愛にあふれる行いは聖霊ご自身の素朴さから出てきます。 聖霊に定期的に祈る人々は、助け、慰め、励ましとなる言葉と行いを容易に見つけ、実現します。

   ですから自分の為に、自分の共同体の為に心を尽くして聖霊の助けを願いましょう。 四世紀のセザレの聖バジリオは、自分に委ねられた信者に次のように証しました。 「明らかに透き通るようになった物体が一つの光線に触れると、比べるものもない程、輝かしくなるように聖霊を携え、聖霊によって照らされる魂も霊的なものとなり、他の者たちに優雅さを贈り出すのです。 そこから未来を知ること、奥義の理解、秘められた神秘の悟り、恵みの分配、天国の状態、天使たちとの歌と踊りが生じるのです。 それから決して終わりのない歓喜、神における忠実さ、神の似姿が生じるのです。 そして何よりも先ずあなたが神のようになることです」。

   聖霊によってキリストは私たちの内に留まり、私たちと共に生きておられます。 ご自分の霊によってイエスは 絶えず私たちに神の命を与えます。 困難の時、また私たちが孤独をひどく感じる時、必ずイエスに聖霊の力を乞い求めましょう。 祈りは決して避難所ではありませんが、祈りによって私たちはどれ程イエスが自分たちの問題を一緒に背負っているかを体験できます。 すべてがうまくいかない時に、ただ祈りの内にだけではなく、神の言葉の内にも新しい力と希望を探し求める賢明さを持ちましょう。 確かに神の言葉を自分に浸み込ませれば込ませる程、私たちが真理と知恵の霊の助けを体験するでしょう。

   この真理の霊と共にイエスの名によって、父なる神に向かって「アッバ 父よ」と絶えず叫びましょう。 本当に私たちは神の愛する子供たちです。 「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれています」(ローマ5,5)。 ですから信仰年に当たって、聖霊と教会の交わりの中で世界に向かって神の無限な愛を証しましょう。 アーメン。



          三位一体の主日C年       2013526日   グイノ・ジェラール神父

                 箴言8,22-31      ローマ5,1-5       ヨハネ16,12-15

    三位一体とは愛と謙遜の神秘です。 この祝い日に当たって、典礼は三つの朗読を提案しています。 最初の朗読は箴言の素晴らしい詩として、愛によって神が創造された世界の美しさや豊かさや良さを描写します。 そこで神は楽しく遊んでいる方として現れます。 神は知恵の全力を尽くして、次々と山を創ったり、泉を湧き出させたり,天と地を強く固めたりします。

    ローマ人への手紙は、私たちの幸せを謙遜に望み実現する神の三つの名前を教えています。 「主キリストによって父なる神との間に平和を得ています…私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれた」からです。 聖パウロは三位一体の神を私たちの信仰の由来とその泉として紹介します。

    ヨハネの福音は、愛によって人々を創造した神の知識の方へ私たちを招き入れようとします。 私たちが神と似ているので、その神を知ること、無限の愛で私たちを囲み守る神を経験することは、自分自身を知るためにしなければならない最も大切な務めです。 今日の福音を通してイエスは次のように打ち明けました。 「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。 だから、わたしは『聖霊がわたしのものを受けて、あなたがたに告げ知らせる』といったのである」。 神として一人ひとりのペルソナが、他のペルソナにご自分を委ね、送り出すので、三位一体の神秘は愛と謙遜の神秘です。 従って、交わりと分かち合いの模範や謙遜と互いを互いに委ね合う模範である三位一体を、神の似姿である私たちが真似ることが肝心です。

    三位一体である父と子と聖霊は、私たちの世界がなるはずの完全な実現と模範です。 地上の幸福と不幸は、私たちが神と人々に作り上げる関係の質の良し悪しにかかっているのです。 私たちの幸福と不幸は他者と分かち合いたい、交わり合いたい意志にかかっていると同時に、自分自身が幸せになりたいように、その他者も幸せになることを心から望むことにもかかっているのです。 人を愛するなら、その人の幸せを望むことであり、自分の利益や自己満足を満たす為ではありません。 このように愛する人は、必ず神との一致に与らせ、神の内に留まらせる知恵、知識、信仰を得るのです。

    神だけが神を知っておられます。 神は完全に自分自身を知るので、神でおられます。 すべての被造物にとっては、神はつかみにくい神秘ですが、神は自分自身をよく知っているし、また三位一体の各ペルソナによって神が完全に、親しく知られています。 この事実についてイエスは証ししています。 「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(マタイ11,27)。 イエスは 父なる神を完全に知っているほどに、彼と父が一つになっています。 父なる神と子であるイエスの間に愛があります。 その愛は勿論、三位一体の第三のペルソナである聖霊です。 「聖霊は私のものを受けて、あなた方に告げるでしょう!」(ヨハネ16,14)と、イエスは断言します。 イエスの内に神の神秘のほんの少ししか啓示されていないからです。

    しかし、大切なことは三位一体の神の神秘を理解することではありません。 それは無理です。 むしろ、神の心から湧き出る愛に生きることが最も大切なことです。 この世を救いたい、変容したい神の愛の流れによって私たちが動かされ、連れ去られることを学ぶ必要があります。 使徒パウロが言ったように「私たちは神の家族」(エフェソ2,19)となったので、私たちはそれを具体的に見せなければなりません。 神の子として 三位一体の神の愛の内に入り、私たちがその愛に毎日、至る所で、更に永遠に生きていかなければなりません。

    「神は愛です」とヨハネが簡単にまとめたこの言葉について、私たちは深く考えることが必要です。 愛こそがすべての繋がりと人間関係の優れた形です。 神は愛そのものですから私たちを愛し続けます。 また神は私たちの愛を慕っています。 神はどうしても私たちをご自分の神としての愛に引き寄せたいからです。 聖ペトロは上手に神の望みを表しました。 「あなた方は、神を見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(1ペトロ1,8-9)

    ですから神の愛する兄弟姉妹の皆さん、キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがいつもあなた方と共にありますように。 アーメン。



        キリストの聖体C年    201362日   グイノ・ジェラール神父

            創世記14,18-20  1コリント11,23-26  ル カ9,11-17

    「キリストの聖体」の祝日に私たちはみ言葉のパン、キリストの体のパン、奉仕のパンを味わうように招かれています。

    言葉と行いによって、イエスは命のパンであります。 聖ルカの話によるとイエスは群衆をご自分の教えで養い始めます。 「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り治療の必要な人々を癒しておられた」。 ミサ祭儀はいつもこのみ言葉のパンと魂の病気である罪の赦しで構成されています。 4世紀の教会の博士である聖イエロニモは次のように言う習慣がありました。 「私たちが聖体の一つの欠片を失わないようによく気を付けているので、同時にミサの時に宣言される朗読の一つの言葉を失わないように気を付けなければなりません」と。 聖体の小さな欠片も福音の一つの言葉も、両方とも復活されたキリストの現存を持っています。

    しかし、私たちは福音に対して飢えを持っているでしょうか。 フランスの格言によるとたくさんの本を読む人は、「本を食い尽くす人だ」と言われています。 また本の内容を評価する人は、「本を深く味わう人だ」と言われています。 聖書の話によるとある天使は、エゼキエルと聖ヨハネに神の「言葉の本を食べなさい」と言われました。 彼らのように私たちは神の言葉の本を食い尽くす覚悟をしているでしょうか(参照:黙示10,9 エゼキエル3,1)。 私たちは福音を深く味わうように時間を作っているでしょうか。 神の言葉の前で私たちはグルメであるでしょうか、それとも食通ぶっているだけでしょうか。

    今日の典礼はまた、イエスの体のパンを頂くように私たちを招いています。 キリスト者と言う人は、教義やプログラムや本の内容にのみ所属する人ではありません。 インド人はヴェダーと言う書物を、ユダヤ人は旧約聖書を、イスラムの人はコーランという宗教の書物を神と同じように敬うように守っています。 しかしキリスト者は聖書の本ではなく、生きておられるキリストに生きようとしています。 私たちの信仰によってイエスと一致する、そしてキリストの体を食べることによって私たちの内に神への飢えと渇きを深めます。 私たちは聖書の教えよりも キリスト自身に従っています。 キリスト者はイエスと一つになることを深く望んでいるので、イエスご自身が生きているその命に対する飢えと渇きを育てます。 命のパンとして自分自身を紹介することで、イエスはご自分の命によって私たちが生きるように望みます。 イエスの体は真の食べ物であり、イエスの御血は真の飲み物です。 聖体拝領をする人は自分の内に神の命を受け、神が彼の内に留まり、その人も神の内に留まります(参照:ヨハネ6,55-56)。

    「イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」とルカが述べています。 この文章の中で4つの動詞(取る、賛美する、裂く、配る)があり、それらはミサの流れの中に出てくる動詞と言葉です。 ご自分の体と血を通してイエスは永遠の命の糧として自分自身を与えようとします。 拝領によってキリストの体は私たちの体となり、イエスの血は私たちの血となります。 従って、お互いに私たちはキリストの神秘的な体となります。

    私たちに仕える為にイエスは来られたので、奉仕のパン、人に奉仕するパンとしてご自分を私たちに与えようとされます。 キリストにとって人々に仕えることは、父なる神に誉れと栄光を与えることです。 社会や人間関係を変化させるために働く人も神の意志を行っていて神に栄光を与えます。 イエスは弟子たちに次のように言いました。 「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」(マタイ14,16)そう言いながら、ありのままで自分の持っているもので、他の人々のために何かをするようにと、イエスは私たちを励まします。 「『パンはいくつあるのか見て来なさい』とイエスは弟子たちに言われました」(マルコ6,38)こう言いながらイエスは自分たちの持っているもので、いくらそのものが足りなくても人々に仕えるように私たちを遣わします。 キリストに与えようとする私たち自身と関係のあるこの小さいつまらない部分によって、イエスは命あふれる業を実現することができるのです。 キリストの体を頂く人は、必ずその聖体拝領の内に人々に仕える力を見つけるでしょう。 それを固く信じて実現しましょう。 そうすればイエスと共に私たちも永遠の命を豊かに湧き出させる泉となるに違いありません(参照:ヨハネ4,14)。 アーメン。



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